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生活とがんと私 Vol.8 竹條うてなさん

更新日:7月9日


長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。



インタビュイープロフィール

お名前:竹條 うてなさん 

職 業:看護師

がん種:乳がん

ステージ:2a    

治療内容:手術→抗がん剤治療

治療期間:2012年10月~2014年1月

休職期間:9ヵ月

    

25歳の時、自己検診でしこりを発見。ご自身の勤務先の病院で検査・診断・治療を開始。その際、不妊のリスクについて専門医に相談するも冷たい対応を受け失望する。家族のサポートもあり、治療を続けながら職場復帰。患者と医療従事者の両方の立場から、最近では患者会を立ち上げるなど、AYA世代への情報発信を積極的に行っている。



目次



うてなさんのがんストーリー


ーまず、うてなさんのご経験について教えていただけますか。


看護師になって2年目、25歳の時でした。お風呂に入る時に胸にしこりを発見し、次の日に自分の病院を受診したところ、それとなく告知を受けました。ちょうど夏休みの期間だったので、その間に術前検査を済ませ、ほぼ診断が確定しました。夏休み明けは夜勤のシフトを既に組んでいたため、他の人に迷惑をかけないために月末までは働き、その後病気休暇をとって手術を受けました。


ーどのような診断を受けたのですか。


浸潤性乳管がん、ステージI-IIとの診断を受けました。女性ホルモンではなく、HER2タンパクが原因のものです。「年齢も若いし、一部組織も浸潤しているから化学療法と、HER2タンパクが原因だから分子標的薬をしましょう」と先生から言われ、治療期間は長く見て1年半ぐらいとのことでした。


ー1年半は長いですよね。全摘出か部分切除か、というのはどのように選んだのか教えていただけますか。


エビデンス的にはどちらも生存率は変わらないと聞いていましたが、胸を残していた方が局所再発のリスクは高くなると聞きました。体の中からがんが完全になくなってほしいという強い思いがあり、胸がなくなることへの抵抗もそこまでなかったので、私は全摘出を選びました。あとは、放射線を当てることへの不安もあったのかもしれません。胸があっても放射

線を当てると母乳が出なくなるので飾りみたいなものだし、今の時代作り直すこともできると思い、残しておくことよりはリスクを減らすことを優先しました。


ー入院することは誰かに相談しましたか。


相談はしませんでした。実は、家族と職場の人以外には今でも伝えていないんです。診断を受けてすぐに夏休みに入ってしまったので、病院のスタッフの人には伝えられないままでした。管理職の方にお話し、自分がいない間に他のスタッフにも伝えてもらいました。


ー自分の代わりに伝えてもらったことは好意的に捉えていますか。


自分から泣きながら伝えるよりは、管理職の方に伝えてもらって助かったと思っています。手術も自分の病棟でしてもらう予定だったので、自分が言わなくても気遣っていただけたのは有り難かったです。ただ、当時は休職や病休になる人の名前が病院中に書類で出回っていたので、他の部署にまで知られてしまっていたのは辛かったです。親切で言ってくれているのかもしれないけれど、普段関わりのない人から何か言われると「何でそこまで知っているの」と戸惑うこともありました。



検査結果が生きる糧に


ー遠隔転移のリスクが心配だったとのことですが、手術前はどのように過ごされていたのですか。

仕事柄、再発転移をして亡くなっていく患者さんを見てきたので、それがどうしても怖かったんです。


がんが見つかった時、脇のリンパも腫れていると言われ、既にどこかに転移しているかもしれないという不安が頭をよぎりました。そうなったらもう働けないかもしれないし、親の介護をしなくてはいけない立場の私が、親に介護をしてもらう立場になってしまうかもしれない。様々な重荷を感じて、もしも他の臓器に転移しているなら、治療ではなく自殺をしようと思っていました。


ー結果的に治療を選択したのは、何がきっかけになったのですか。


術前にPET検査を受けたら、胸の局所にしか広がっていないことが分かったんです。これだったら頑張って手術をして、死ぬ道ではなく生きる道を選ばなきゃいけないと思いました。がんではないという結果は返ってこなかったけれど、この検査を受けて、やっと思い詰めていた気持ちがホッとしたような気がしました。


ー検査を受けて、治療に踏み切ることができたのですね。治療中はどのように過ごされていたのでしょうか。


手術の2週間後ぐらいから抗がん剤治療を始めました。最初の3ヶ月は入院しながら3週間ごとに抗がん剤治療をし、その後はウィークリーの外来通院で4ヶ月間頑張りました。その間、病院の外には出ていなかったです。引きこもっている私を家族が心配し、知っている人が誰もいない隣の香川県によく連れ出してくれました。


ー人目につくことを気にしていましたか。


そうですね。周りには言っていなかったですし、田舎なので、昼間から若者の車が駐車場に停まっているだけで「仕事もせずに何をしているんだ」と思われたり、病気と分かると「家の血が悪い」と思われてしまうこともあります。なので、知られないように過ごしていました。


ー治療中、ご家族はどのように接されていましたか。


お互い何も言わないので分からないですが、母親は特に気を遣っていたみたいです。元々仲は良いのですが、自分から親に相談したりはせず、親もそこまで干渉してこないタイプなんです。付かず離れずでサポートだけしてくれていたのは、とても助かりました。食事も、身体のことを考えたご飯を作ってくれたりして、感謝しています。



自らの経験を、患者と医療従事者の架け橋に


ー職場復帰はどのタイミングでされたのですか。


2012年の10月に手術をし、2013年の8月から職場復帰しました。職場もみんな夏休みに入りだして人が足らないと思ったので、とりあえず働かなきゃという思いでした。


ー復帰するにあたって、職場の方には何か伝えたのですか。


脇のリンパを取ったので重いものを持てなかったり、傷が治っていなくて痛かったりもしました。お互いが働きやすくなるために、こういう治療を受けて、こういうことができないので力を借りるかもしれないという旨のメッセージを、職場復帰前に病棟の他のチームにも渡しました。


ー工夫をされていたのですね。その時、職場の方の反応はいかがでしたか。


きっかけを作ったことにより、「もっと詳しく教えて」と聞いてきてくれたスタッフもいました。職場は乳腺を専門に手術していた病棟なのですが、看護師は退院してからの患者さんの姿は見えません。医師や看護師なら全てを知っているようで、実は、患者さんが退院後の日常生活の中でどういったところに困っているのかは、教科書レベルでしか知らないんです。自分が患者になって初めて知ったことも沢山ありました。そして、教科書に載ってないことの大切さも知りました。だからこそ、術後何が起こって何を助けてもらいたいかを自らが伝えていこうと思ったんです。


ー伝えていくことは、患者としても大事なことですね。副作用もあったと思いますが、実際に職場復帰された時はどうでしたか。


かなり辛かったです。お昼ご飯を食べることよりも、休憩室に行って寝ることを優先していました。髪の毛に関しては、ウィッグをするしかありませんでした。職場では周りの目があるので、夏の暑い日でもウィッグをしていました。グローブをしていたので手のしびれはそこまでありませんでしたが、作業がしづらい時はありましたね。あとは、ものの覚えにくさや忘れやすさも感じました。一歩間違えたら大変なことになる職なので、タイムスケジュールを書いて一つずつ消しながら、忘れないように気を張り詰めて仕事をしていました。


ー頑張っておられたのですね。復帰後、周りからしてもらって嬉しかったことや困ったことはありましたか。


嬉しかったことは、患者としての自分の経験を頼ってもらえたところです。同年代や同じ病気で悩んでいる患者さんの指導を頼まれ、私の体験を役立てる場を作っていただきました。一方で、周りからきつい言葉を言われることもありました。罹患して何年も経つと、自分が病気になったことをわざわざ言わなくなってきます。知らないからこそ心許ないことを言ってくる人もいて、辛かったですね。


ー今後同じように治療と仕事を両立していく方、両立支援に取り組む担当者の方へメッセージをいただけますか。


まず、がん患者が働く立場になった時の最低限の心得として、周りに分かってほしいことを

自分からきちんと伝えることが大切だと思います。厳しいかもしれないですが、言わずとも配慮してもらうのは当たり前ではありません。そして雇用主の方にも、働く前に本人と話し合う機会を持っていただけたらと思います。どういうところに気を遣ってほしいか、どこまでいくとやりすぎか、などを事前にすり合わせることで、お互いが気持ちよく働けるのではないかと感じます。



多くの人との出会いが変えた未来予想図


ーAYA世代で罹患されましたが、妊孕性についてはどう感じていましたか。


主治医の先生からも、抗がん剤治療によって妊孕性が低下するかもしれないとは聞いていました。当時子どもを産むことに対してそこまで身に迫った思いはなかったので、戻る可能性もあると思い治療を優先しました。


ーがんになったことで、考え方は変わりましたか。


がんは、「競争」ではなく「共存」だと思えるようになりました。がんで亡くなったから負け、再発しなかったから勝ち、ということではないと思っています。勝ち負けではなく、一緒に生きていけるような社会であってほしいです。


ーきっとその思いが、笑顔で前向きに進んでいける原動力になっているのですね。どうしてそう考えられるようになったのでしょうか。


色んな人に出会えたからだと思います。治療中に一度県外の乳がん学会に行ってみて、初めて患者会の存在を知ったんです。地元の徳島では偉い先生方のお話しか聞けなかったので、同じ境遇にある患者さんの姿を見て、世界が広がったような気がしました。


ー色んな人に出会えてどう感じましたか。


今まで自分はずっと隠れていたので、「自分も社会に出れるんだな」「他の人たちと一緒に生きていけるんだな」と思いました。どうしても今までの友達と自分を比較してしまうところがあるのですが、同じような土壌で頑張っている人との出会いは、自分にとって大きなパワーになっています。また、色んな人に出会い、刺激をもらったことで、将来について柔軟に考えられるようになりました。前は就職して結婚して子どもを産んで、という一つの道しか見えていませんでしたが、子どもがいない道、子どもがいる人との道、一人の道など、色んな道を考えられるようになったと思います。



AYA世代へのメッセージ


患者会などに参加して、同じ世代の仲間、病気のことを分かってもらえる仲間を作ることが大事だと思います。私自身、一人の時間が長すぎたので余計にそう思います。一人で悩まず、一歩踏み出して、ぜひ新しい仲間を頼ってみてください。


ー貴重なお話ありがとうございました。殻を破って新しい世界に飛び込まれたうてなさんを見て、きっと多くの方が勇気づけられると思います。これからのさらなるご活躍を応援しています。




2021年7月15日

語り=竹條うてな

取材=吉田ゆり

文 =藤木里紗(GHOボランティア)

写真=ご本人提供


※本記事はがんを経験された個人の方のお話であり、治療等の条件や判断は1人1人異なります。全ての方にあてはまるものではありません。


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