長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ
そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。
いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時
慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。
“がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。
インタビュイープロフィール
お名前:藤原 真衣さん
職 業:会社員(当時)
がん種:バーキットリンパ腫
ステージ: ステージⅣ
治療内容:化学療法(抗がん剤4クール)、人工透析、CVポート造設術
副作用:体力低下、しびれ、口内炎、吐き気、爪・顔色変化、脱毛、その他
治療期間:約5か月間
復帰時期:1年以内
勤め先 :中小企業 従業員数50人以下
利用した企業制度:年次有給休暇、傷病休暇(有給)、慣らし勤務
利用した公的制度:高額療養費制度、限度額適用認定、傷病手当金、医療費控除
印刷会社でDTPオペレーターとして勤務していた28歳の時、バーキットリンパ腫にり患。抗がん剤治療を受け、退院の半年後に職場復帰。その後約2年間、休職前と同じ業務に従事。
目次
・職場復帰
元気印の私に異変
‐がんに気付いたきっかけはありましたか?
28歳のとき、体調の変化がありました。最初に感じた異変は乳房のしこりです。ある日たまたま触れたら、左の乳房の付け根、肋骨に近い辺りに、10センチ程の大きさのしこりがあるのに気付きました。直感で「これは放っておいてはいけない」と思い、翌日出勤して直属の上司に「病院に行きたい」と伝え、その日の午後、自宅近くのクリニックを受診しました。しかし、「ここでは良性悪性の判定ができません。紹介状を書くので大きな病院に行ってください。」と言われ、約1週間後に1人で紹介先の大きな病院に行きました。
‐しこりに気付く以前、定期的に検診を受けたりしていましたか?
いえ全く。それまでずっと、学校も休まない、仕事も休まない、風邪もひかない、といった具合でしたから、「自分は健康だ、身体が丈夫な方だ」という自信がありました。だから、余計に焦りました。“しこり=乳がん”と思い込んでいましたね。
‐がん腫の特定まではどういった経緯でしたか?
紹介先の病院で乳腺外科を受診したら、しこりは良性だと分かりました。「よかった」と思いながらも、その時感じていた下腹部の張りが気になり相談したら、その日のうちに婦人科でエコー検査を受けることになりました。しかしエコー検査だけでは詳しいことは分からず、3日後にMRI検査を予約しました。ですがその日を迎える前に容体が悪くなり、食事も水分補給も出来ない状態になりました。胃液なのか何か分からないものも吐いてしまうほどずっと吐き続けていました。
MRI検査当日も動けなかったので、実家から母に来てもらい、当時同棲していたパートナーに病院まで車で送ってもらいました。MRI検査は2回、最初は造影剤を入れずに検査し、続いて造影剤を入れて検査する予定でした。しかし、造影剤を入れる前の検査が終わった時点で限界でした。体調が悪くなり、2回目のMRI検査は受けられませんでした。造影剤なしのMRI検査の結果で「卵巣がんの可能性がある」と医師に告げられました。
卵巣がんとなると入院や手術が必要なので、サポートをお願いする家族の事も考慮して、実家の近くにある大学病院に紹介状を書いてもらいました。その後のエコー検査や内視鏡検査は予約が必要で、1日おきに検査を受けるような状態でしたので、負担を軽減できてよかったと思います。家族が仕事を調整して送迎してくれたり、付き添ってくれたりと、総出でサポートしてくれました。申し訳ない思いとありがたい思いでいっぱいでした。
大学病院の婦人科で改めてエコー検査をした結果、「腸がぐちゃぐちゃになっている。卵巣がんではなく、大腸がおかしいのかも。」と言われ、消化器内科で消化器を調べていきました。エコー検査や内視鏡検査を進めていく中で、先生が書いてくれた“可能性のある病名リスト”の一番端っこに書かれていたのが“悪性リンパ腫”でした。「もしかしたら、これの可能性もなくはない。」と話していたくらいの確率でしたが、検査の結果、消化器の病気ではないことが分かり、血液内科で骨髄穿刺・PET-CT検査をして、ようやくバーキットリンパ腫が確定しました。
確定診断を受けた時は「やっと自分の敵が分かった」という安堵と、大きな病気だと思ってはいたけれど「やっぱりがんなんだ」という気持ちの両方がありました。でも不思議と「死」のイメージがよぎることはありませんでした。もしかしたら、確定診断のその日から抗がん剤の処置が始まったので、考えている暇もなかったのかもしれません。
‐最初に感じた違和感からは想像もできないですね。
そうですね。まさか乳房のしこりから、血液のがんだとは思わなかったです。
悪性リンパ腫の症状の一つとしてしこりがあり、下腹部の張りは腹水によるもので、腹水が溜まったからお腹も膨れてきた、ということでした。がん腫が分かったから点と点がつながり線になり説明がついたという感じです。何も知識がないので、病名を突き止めるまでは「もう、先生どうかお願いします」という思いで、とにかく早く知りたかったです。
-かなり短期間で体調が変化されていることに驚きました。
バーキットリンパ腫は高悪性度のがんで、がん細胞の増殖が非常に早いそうです。急激にがん細胞が増えるから、“数日前まで動けていたのに次の日には動けない”そうした身体の変化が起こりえるそうです。1月末に違和感を感じ、確定診断に至ったのが2月28日。日を追うごとに体調が悪化し、食べられない、歩けない、動けない、と変わっていくので、悪い病気だということだけは理解していました。そんな状態でのひと月はとても長く感じられて、私は「早くどうにかしてほしい」と思っていました。
‐見た目の変化などもあったのですか?
身体がむくんでいくんです、それも下半身だけ。お腹と足だけがどんどんむくみ、顔や腕はげっそりしていて「まさに病人」という風貌になりました。ぶつけたりしていないのにあざが出来る、という変化もありました。
‐ご両親の心配は相当なものだったでしょうね。
そうだと思います。私自身は「今日も明日も生きていかなきゃ」ということに必死で、両親の気持ちにまで考えが至らなかったのですが、両親にしてみれば「なぜ娘が…」という思いだったでしょうね。当時28歳、親元から巣立って独り立ちしていくタイミングでそんなことになるとは、予想だにしていなかったと思います。
後になって母から「お父さん2回泣いてたよ」と聞きました。本当に涙を見せない人なので、「あぁ…泣かせちゃったんだな…」と思いました。母とは友達のような関係で何でも話せて、いつも味方でいてくれるので、「卵巣がんかもしれない」となった時には2人でわんわん泣きました。私にとって常に心強い存在です。
抗がん剤治療スタート
‐病種が分かり、どのような治療をされましたか?
バーキットリンパ腫は高悪性度だけど抗がん剤がよく効き、寛解を目指せる、予後のよいタイプのがんだそうです。進行スピードが早いので、強めの抗がん剤でがん細胞を一気に減らすという治療で、抗がん剤治療を4クールやりました。主治医から「1週間抗がん剤を投与し、抗がん剤が抜けるのに1週間、白血球の回復を待つのが2週間という、1クール約1ヵ月。それを4回繰り返して寛解を目指しましょう。」と説明していただき、納得して治療を始めました。
実際抗がん剤治療を始めた後、1クール目の投与2日目には身体に力が入らず、意識が飛びそうになる、といった状態になりICUに入りました。この時、人生で初めて三途の川を見ました。
-藤原さんの身体に、一体何が起きていたのでしょう?
私の場合、腹水やむくみ、胸のしこりから分かるように、全身にがん細胞がありました。“腫瘍崩壊症候群”というそうなのですが、抗がん剤で死滅させたがん細胞が多すぎて、腎臓が処理しきれなかったようです。尿と一緒に排出できなかった毒素が体内を巡り、結果的に意識を失いました。
ICUに運ばれて、抗がん剤投与のために首の血管に入れていた管を、人工透析用に付け替える処置をし、その後人工透析で強制的に血をきれいにする処置を受けました。私はほとんど意識がなく、一度だけ酸素マスクをつけたり大勢の医師が処置しているところで意識が戻りました。その次に気付いた時にはもうICUのベッドに横たわっていて、びっくりするくらいお腹が平らになっていました。
‐そうなると、予定していた3日目の抗がん剤投与は?
腎臓が機能しないと排出できないので、一旦中止し、腎臓がある程度回復するまで待つことになりました。「最悪、一生人工透析が必要になるかもしれない。」と主治医から言われましたが、幸いなことに回復しました。
‐それだけ腎臓に負荷がかかったんですね。
そうですね。たくさんのがん細胞が身体中にあり、抗がん剤が良く効いたからこそ、腎臓がダメージを受けてしまったんですね。腎臓の回復後、1クールの3日目から治療を再開しました。
両親にとっては、この一連の出来事が一番びっくりしたことだったそうです。急に掛かってきた電話で人工透析に同意して、面会に行ったらいつもの病室にいないから慌てて看護師さんに話を聞いてICUへ、といった具合だったそうです。
‐その後、何事もなく治療が進みましたか?
実は、ICUから血液内科に戻り抗がん剤治療を再開してまもなく、痙攣して意識を失う経験をしました。その日は土曜日のお昼過ぎ、面会に来ていた父に「服用する薬を取って」とお願いしました。父が薬に手を伸ばした瞬間、背後で点滴棒が倒れる音がしたそうです。父が「何やってるの?」と振り返ったら、痙攣している私がいたので慌てて看護師さんを呼んだそうです。看護師さん達が急いで集結して処置室に運んだと父から聞きました。
週明けに原因を探る検査をしましたが痙攣の原因はわかりませんでした。しかし、こうした経緯があり、異変が起きても主治医がすぐに対応できるよう投薬のスケジュールを見直すといった配慮を先生方がしてくださいました。
気持ち悪さや髪の毛が抜けるといった副作用はありましたが、その後は大きな問題なく、予定通り治療が進んでいきました。1クール目で抗がん剤がよく効いたことで血管が弱くなってしまったため、CVポート(抗がん剤を注入するために皮下に埋め込む、中心静脈カテーテルの一種)を入れました。
入院していた部屋は4人部屋で、私以外は高齢の方が入院されていました。皆さん静かに過ごされているのに、私だけトラブルで騒々しくしてしまい、申し訳ないと思っていました。
復職への道のり
‐職場にはどのタイミングで伝えられたんですか?
職場の同僚も当初はここまでの事態を想像できなかったと思いますが、初期の頃から直属の上司は私の体調が悪そうだと感じていて、心配してくれていました。検査を受けていた時期は、嘔吐が続いて連絡できずにいました。そうした私に上司は電話で「来れないよね?」「すみません、行けません。」「分かった。何か分かったら連絡してくれれば良いから。」という簡易的だけど優しさの伝わるやり取りをしてくださっていました。
その後も仕事はお休みして、連絡できたのは病種が確定して、治療計画が分かったタイミングでした。同僚には上司から伝えていただきました。
退院後に一度、職場に挨拶に行った時には、皆やさしく迎えてくれ、また会えたことに涙を流して喜んでくださいました。まだ職場復帰できる状態ではなかったため更にお休みをもらったのですが、上司も復帰時期を急かすようなことは一切ありませんでした。復帰時期も私の体調第一のタイミングでということになりました。
‐お休みする時にはどのような制度を活用されたのですか。
最初のPET-CT検査を受けた日までは有給休暇で休みました。確定診断後、診断書を職場に送ったりするのは父が代わりにしてくれて、休職は入院のタイミングでスタートし、12月末まででした。事前に制度について知っていたわけではないので、確認させてもらいながら活用しました。
‐再会の時に涙を流してくれたり、上司の方も急かすことなく復帰を待ってくれたり、とても暖かい職場ですね。
そうですね、いい職場だと思います。50人くらいの小さな会社で、同じ部署の方が10数人でしたが、皆が全ての業務を出来る状態だったので、私が急に抜けても、1人あたりの業務量は増えてしまったとは思いますが業務が滞ることはありませんでした。入院、療養中も一切仕事の問い合わせや相談といった連絡はありませんでした。たまに上司から「調子どう?」「大丈夫か?」といった連絡が来るくらいで、「大丈夫です。生きてます。」と返していました(笑)。
‐退院後の半年間はどのように過ごしましたか?
20キロぐらいやせて、本当に体力がなかったので、最初の3か月は普通の生活をするところからスタートしました。寝て、起きて、食事を摂って、ということができるようになり、次第に家の周りを歩いたり、人込みを避けて外に出たりしました。家事や散歩がてら買い物に行くのは、母としました。
10月末にCVポートを抜く手術をするまでは気持ちもまだ病人だったのですが、それ以降は社会生活を意識するようになりました。そこから更に2か月経ち、「やっと、人並みに動けるようになってきたな」と思えるようになりました。
‐身体の変化も感じられていたのですね
約半年間の入院生活中、セミクリーンルームの中しか移動できず筋肉が落ちて、脚が棒のようになりました。座ったら、自力では立てなかったのです。しかし退院後、ちゃんと食べて、ちゃんと動いたら脚が脚の形になってきて、1人で座った姿勢から立ち上がれるようになり、当たり前にできることが増えていくことで体の回復を実感しました。
夏の暑さが厳しい間は家で過ごし、9月、涼しくなってから外に出るようになりました。11月は友人と会う為の外出をしてみて、12月には術後初の遠出にチャレンジし、旅行に出かけられるまでに回復しました。
職場復帰
‐復帰してみていかがでしたか?
復職を決めた一番の理由は、職場が好きで辞めたくないという気持ちがあったからです。私の職場は通勤に片道2時間掛かる場所にありました。業務の進め方は、部署全体でその日のノルマを消化していくスタイルで、平均すると2時間ほどの残業が発生する職場でしたので、多少不安を感じつつも、「やるしかない、しばらく頑張ってみよう」と思っていました。そして駄目ならまた相談しようと思っていました。復帰した際、上司の「しばらくは残業しないで、定時になったら帰っていいからね。」という声掛けがとても有難かったです。
その後も、残業しようとすると「大丈夫?」とひと声掛けていただいたり、すごく支えていただきました。仕事も好きだし、職場の人間関係も恵まれているので、転職なんて一切考えませんでした。
春ごろまで定時退社し、無理をしない範囲で徐々に業務量を増やしました。処理できる量も増えていき、復帰の4か月後には前と大きく変わらない働き方ができるようになっていました。
実は、私が休職している間、がんで休職した同僚がもう1人おり、その方も復職されていたのでその点もまた心強かったです
‐休職前後で職場に変化はありましたか?
以前は有給休暇が取りづらい雰囲気がありました。しかし、復帰した後は部署の共有スケジュールに取得理由の詳細を書かずに休まれている方がいたり、全社的に取得しやすい雰囲気に変わっていました。その効果もあってか、以前より有給を消化する人が職場全体で増えたと感じました。私も、定期的に通院が必要だったので休みが申請しやすい雰囲気に変わったのは有難かったです。
‐復帰に向けて意識したこと、もしくは復帰後に意識していたことはありますか?
約1年弱、仕事から離れていたので、やり方を忘れていたり、使用するソフトの変更で分からなくなっていることもありました。しかし、上司が隣に座って教えてくれて、新人の頃を思い出しながらの業務再開でした。業務に関しては周囲よりペースが遅いことが分かっていたので、与えられた業務をミスなくこなす、ということを意識して仕事をしました。あとは「自分が抜けても大丈夫な状態にして帰る」ということです。もしかしたら、明日体調が悪くて休むことになるかもしれない、そんな時にスムーズに引き継いでもらえるようにしていました。具体的には、進捗状況、確認しなくてはいけないことのリストアップ、今後どうしてほしいかのメモを皆さんが確認できるところに用意しておきました。翌日の自分へのメモにもなって良かったです。
‐自分自身について感じた変化はありましたか?
復帰後は定期的な検診のみで治療はなかったのですが、疲れやすさを日々感じていました。帰りの電車で座ったら、すぐにスイッチが切れちゃう感じでしたね。乗車時間が1時間ほどと長かったので座れるかどうかは死活問題でした。
‐職場の皆さんの対応も復職後の大きな支えになられたのでしょうか?
はい。些細なことでも聞ける、頼れる、そういった方々に恵まれていて、深入りはしないけれど会話はちゃんとある、ちょうど良い距離感で、居心地の良い環境でした。結婚を機に退職しましたが「いつでも戻っておいで」とも言われていて、在宅で働ける環境ならぜひ戻りたいと思っています。復職当時、もし在宅勤務が可能であれば、もっと早い復帰が可能だったと思います。
まずは回復、お返しは後から
‐り患した方へのメッセージをお願いします
今は通院で抗がん剤治療するケースも多いと思いますが、私の場合はそれができませんでした。入院、休職中は治療に専念、休職期間の後半に体力の回復を目指し、復職後は定期健診と仕事を両立させました。私は生きるために仕事をしているので、資本である身体をまず回復させることが大切だと思っています。さまざまなご事情もあると思いますが、仕事に必要な体力やコンディションを整えることを念頭に考えてほしいです。そして、迷惑を掛けるのは仕方がない、という割り切りも必要だと思います。申し訳ない気持ちから、「午前中ならできます」「週〇日なら行けます」と頑張ってしまう方もいると思いますが、治療が遅れたり、回復に更に時間を要してもあまり良いことはないと思います。無理や我慢をして中途半端に手を出すのではなく、「今は自分を大事にする期間」と割り切り、「今は治療に専念します」と言う勇気も大事だと思います。
病気に限った話ではなく、人はいつか必ず死を迎えますし、助けを必要とする時期も人によって異なります。病気にかかった時期によって味わう苦労も違います。その時その時で甘えられる人がいるのであれば「助けて下さい」と伝え、元気になったら助けてもらった分を返す、それで良いと思います。
聴いてくれる人や場が希望に繋がる
‐ご自身の経験から感じたことなど、両立を支援する方へもメッセージをお願いします。
私が勤めていた企業は小さな規模で、制度が整っている訳ではありませんでした。しかし、話を聞いてくれ、こうしてほしいという希望を伝えたら考えてくれる、というところが何より有難いですし、働く上で安心が得られると感じました。病気に限らず、困っていることや気になっていることを上司にフランクに話せる環境は大きいです。“普段から聴いてくれる姿勢があって、可能なら対応してくれる”を実感できることが、「伝えたら環境が変わるチャンスがある」という希望に繋がります。ブロックするような姿勢ではなく、広く受け止めてくれる方が人事や上司にいれば、「 一社員の声を聴いて検討してくれる場所がある」と感じてもらえると思います。
何よりもまず、対応可能かどうかに関わらず聴いてくれる場がある、というだけでも働きやすさが違うと思います。相談窓口というよりは、身近な先輩や上司の方と、「相談」に囚われずに話ができると良いですね。そんな職場が増えたら良いなと思います。
‐今生きていて、これからも生きていく、という土台が揺らいだ経験があるからこそ出てきた、命を、自分自身を大切にしようというメッセージですね。
互いに助け合う雰囲気は制度で作り出せるものではなく、業務の在り方や取り組み方、ちょっとした会話ができる関係性など、組織に属する一人ひとりの行動の積み重ねで得られる、それを教えていただいたように思います。
相手を思いやる心、人として大切にしたい姿勢をおざなりにしない、それが巡り巡って治療も仕事も頑張りたい当事者の助けとなり、周囲にとっても良い変化に繋がる、そんな好循環が広がっていく社会を目指したいですね。
2024年2月14日
語り=藤原 真衣
取材=がんと働く応援団 碇一美
文 =碇一美
写真=ご本人提供 ※本記事はがんを経験された個人の方のお話であり、治療等の条件や判断は1人1人異なります。全ての方にあてはまるものではありません。
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